個々の楽器には当然のことながら、その成り立ちというものがあります。

 ヴァイオリンは、その構え方、音色、奏法などの性質から、極端にいうとその成り立ちから職人的な楽器としての側面を常に持ち合わせておりました。

 演奏姿の見た目や技巧的な華やかさはやがてヴィルトゥオーゾ〈超絶技巧)といわれ、それを持て囃す熱狂的な聴衆の期待に応えることになります。オーケストラにも実はそのような側面があり、例えばベートーヴェンは、オーケストラ奏者のモチベーションを上げるために、常に少しだけ各パートを難しく書いたようです。

 つまり、西洋音楽の歴史は、常により技巧的なものへ、そして難しいものを弾きこなせる人が賞賛を浴び、同時に時代を経るごとに生み出される作品も複雑さを帯びてきました。現在各地で行われる音楽コンクールも、技巧的な下地に音楽性が兼ね備わっている人が入賞する、そのことに私たちは何の疑いも持っておりません。でも、本当にそういうのものなのでしょうか?

 オーケストラが貴族のサロンを飛び出しその演奏場所をコンサートホールに移していくのは、フランス革命前後のこと。会場が大きくなることで、更により遠くまで飛ぶ音、朗々と歌われるメロディやフレーズ感などが求められました。大きな会場で、多くの人が奏でるオーケストラほど、繊細な表現は伝わりにくくなります。

 この場合の繊細な表現というのは、バロックの時代のようなアーティキュレーションが深く彫り込まれた、歌うのではなく語るような音楽のことをいいます。同時に、よく鳴ることを目的とし楽器はピアノも含めてフレームや構造もがっちり、しっかりとしたものに変化します。このことは西洋における産業革命と決して無縁ではなく、鋳鉄の技術など様々な工業技術が発達し、例えば金管楽器はバルブシステムの開発により他の楽器と同様に滑らかなスケール(音階)も演奏できるようになりました。現在のマンドリンでは当たり前のスティール弦も、おそらくこの頃に開発されたのではないかと推測できます。

 この歴史の流れを常に「発展」や「進化」と位置づけて、音楽をそれぞれの時代に合わせて再現する、そして楽器があくまでも「改良」されていくと信じ続けた結果がこれまでの流れだとしたら、それは19世紀的な価値観の延長線にあるといってもよいかも知れません。18世紀後半にハイドンによって現代のオーケストラの形態の基礎が確立されたといえますが、そこからオーケストラは拡大の一途を辿り、音楽の中味についてはベートーヴェンの頃から音楽には深い精神性が求められ、前世紀ではフルトヴェングラーなどの巨匠といわれる指揮者が台頭し音楽は精神的な深さ、それを与えてくれる演奏者こそが素晴らしいということになりました。驚くべきことに、その傾向は21世紀の現代となっても受け継がれています。

 一方で、20世紀の半ばを過ぎた頃から新しい価値観が誕生します。それぞれの時代の響きを再現しよう、当時の各時代を生きた作曲家や演奏家が奏でていたであろう音楽こそが真に美しく正統なものである、という「古楽」というものの復興でした。しかし、昔どのような演奏が行われていたのかということは、例えばモーツァルトの時代の実際の音源が残っているわけではありませんので、耳で確かめることができません。ではどうしたのか?古楽界のパイオニア達は、現存するオリジナルの楽器、そして、昔の絵画などから楽器を復元し、数多く残る昔の音楽理論書や演奏を指南する文献、いわゆる古文書から音の発音、音色、演奏方法などを推測し、数多のトライ&エラーを繰り返しながら演奏を「復元」し、それが現代の古楽演奏というものに受け継がれてきました。

 この古楽の復興には、楽器だけではなく実は出版社の功績も大きく、楽譜というのは常にその時代を生きる演奏者にとって一番使いやすく編集され出版されていますが、これを当時の作曲家が書いたであろうオリジナルの状態に戻し、後世の人たちが書き加えたものを一旦取り払い、いわゆる原典版を作ることによって、演奏者へ当時の演奏への再現の道を開いたのです。現代に至るまで古楽の復興と原典版の出現はほぼ同時進行で進んでいます。

 つまり、演奏は常に音楽学との繋がりを持って研究の成果を演奏に活かす、また私が考える真に優れた演奏家は、学者的な要素を多分に持ち合わせているということが挙げられますが、常に演奏とは研究の積み重ねであります。

 原典版のことについては、何をもって原典版とするかというその定義づけ、例えば作曲家が既に二つのヴァージョンを生前に書いている場合や、スコアやパート譜の自筆譜(マニュスクリプト、といいます)のどちらか、或いはその両方が紛失している場合、また作曲家自らが書き間違いをしている場合、その他本当に多岐に渡る状況によって、原典版の特定が難しい場合があります。従いまして、この話はとてつもなく長い話になります故、いつかまた改めてお伝えさせていただくことにします。

 何故私がこのマンドリンオーケストラの演奏会の挨拶文でこのようなことを長々と書いているかといいますと、私は、マンドリンオーケストラとその音楽の世界においても、古楽の復興のような立場を取りながら、マンドリンという楽器の成立の過程、また発展史を研究することで、マンドリンが持っている本来の魅力や素晴らしさを新しい形で音として再現してみたいと考えるからです。

 例えばマンドリンを手に取っている人なら知らない人はいないであろう、ボッタキアリという作曲家の作品は、彼の頭の中でどのように鳴り響いていたのだろうか?彼を取り巻くマンドリンオーケストラの現場は一体どのようなものだったのだろうか?どこまでが彼が書いた音符と記号だったのだろうか?そして何よりも、当時のマンドリンとは、どのような音のする楽器だったのだろうか?今と同じだったのだろうか?
 今回私たち「フィラルモニカ・マンドリーニ・アルバ・サッポロ」(以下、アルバ)のプログラムの中で、彼の「ジェノヴァへ捧ぐ」という作品を取り上げますが、他の作品についても音符の裏に潜むキーワードをいくつも解きながら演奏を進めてみたいと思います。

 上述したことも踏まえてですが、私が数年前からあたためてきた目標を今年の夏に実現する運びとなりましたことを、ここにご報告させていただきます。各地でマンドリン、マンドリン属やギターといった楽器を楽しむ人や学ぶ人たちが、本格的に勉強をしたいという意志を持った時、そこに開かれた環境があるとよいと私は長年思って参りました。その構想のもとに準備を進め、「スーパーユースマンドリンオーケストラ」を今年の夏に静岡にて開催できることとなりました。

 楽器の奏法、音楽性を一流の講師の方々から学べて、合奏のやり方、楽しみ方が、分かるというものです。目指すところはオーケストラですが、室内楽も学ぶことができます。室内楽の大きくなったものがオーケストラであるからです。「スーパーユースマンドリンオーケストラ」で教育を受けた人達に更に学ぶ場が必要となれば相応しい教育課程が、更にそこで学んだ人たちが社会に出てマンドリンでお仕事をして、一般の人々に普通にマンドリン音楽のよさを味わっていただく一つの方法として、プロフェッショナルのマンドリンオーケストラの設立、そのような長期的なビジョンも描くことができます。もしかしたら私の存命中には成し遂げられないこともあるかも知れませんが、次の世代にそれを伝えていきたい、そんな年代に私も差し掛かったようです。

 今こうしてこれらのことが発信できるのも、私にとっては戦友ともいえる、マンドリニストの柴田高明さん、ギタリストの吉住和倫さんという強力な仲間ができたことです。演奏者としてはもちろん優れた方々、そして人間としても実に素晴らしい仲間に支えられ、アルバも私も存在します。そして何よりもアルバの仲間たちは、毎年根気よく頑張って演奏会を重ねております。アルバの仲間がいなかったら私は「スーパーユースマンドリンオーケストラ」の構想など思い付かなかったでしょう。そして今回静岡での開催ということで、様々な準備を重ねて下さっている静岡の方々。それは、アルバの前進となった「ムジカ・クラシカ・T」を立ち上げた貝沼征嗣さんを中心とする音楽仲間たち。たくさんの心ある仲間に支えられていることを本当にありがたいことと感じます。

 今年の「スーパーユースマンドリンオーケストラ」を私は本当はこの札幌で開催したかった。
 いつかその日を夢見つつ、アルバは、参加するという意識の上で、より高みを目指す団体になりたいと思います。そうすれば技術は自ずとついてくるもの。しかし技術はあくまでも「音楽はこんなに楽しいんだ」ということを味わうという究極の目的を達成するためのものに他なりません。

 この文章を通しまして、そのようなことを考えながら指揮棒を振っている人間がこの世に一人いることを知っていただければ幸いに存じます。
 本日もようこそお越し下さいました。最後までごゆっくりお聴き下さい。

 2018年2月25日
 指揮者  橘直貴