皆さま、本日はコンセール・エクラタン福岡の第5回演奏会にお越しいただき、ありがとうございます。

 本日は「モーツァルトの名曲と迷曲?!〜迷曲の謎を指揮者 橘直貴が解き明かす〜」と題しましたモーツァルト三昧の演奏会です。最初に協奏交響曲を演奏した後、演奏会後半で聴いていただく交響曲について、音楽付きの説明を行います。

この中では、バリトン歌手の久世安俊さんにもご登場いただきながらモーツァルトが死の3年前に書いた最高傑作の一つ「ジュピター交響曲」、その作品の魅力の秘密と裏側に迫ってみようと思います。

 

〈父・レオポルトと息子・ヴォルフガング〉
 モーツァルトは、音楽的才能に恵まれた天才であったことは間違いありません。しかし、彼がこのように音楽の歴史に名を残してきた大きな要因の一つには、教育熱心な父親の存在なしに語ることはできません。父は、当時の宮廷音楽家であり作曲家であり、そして理論家でもありました。彼の書いた「ヴァイオリン奏法」は、当時の演奏法や演奏習慣、またよい趣味とは何かを知る上で欠かせない文献となっています。日本語にも訳されており、私たちも容易にその内容に接することができます。(*1 注釈)

 息子の類い稀なる才能を見抜いた父は、息子を連れてヨーロッパ各地の宮廷に赴き御前演奏を行います。宮廷音楽家という、いわば当時サラリーマンのような給与体系の中にあったレオポルトが年間多くもの休暇を取り、ステージパパとして息子との旅を重ねることがよくもできたものだと私は密かに感じています。父親と共に息子は行く先々で喝采を浴びながら、各地の文化や音楽を我が身に取り込みます。こうして、モーツァルトの才能は、成長と共により更なる大きな翼を広げることとなります。

 モーツァルト(ヴォルフガング)は成人してからも自作の演奏のために欧州の各地に赴きます。彼の人生の多くは旅であったといっても間違いありません。モーツァルトはその生涯を通じ、尊敬する父・レオポルトに宛てて夥しい数の手紙を旅先から書き送ります。幸いにしてその手紙は大半が現存するために、私たちはそこから当時のモーツァルトの日々の生活の様子、また人生そのものを、彼の筆跡を通して知ることができます。そして今日のこの解説、まだレクチャーの中でも手紙の内容から当時のモーツァルトの心情を推し測りつつ、作品に対する理解を深めていきたいと思います。

 

〈1778年のパリでの出来事〉
 本日、最初に演奏いたします「協奏交響曲」は、1778年、22歳のモーツァルトがパリに到着した後に書かれました。その頃パリに居合わせたフルート奏者のウェンドリング、オーボエ奏者のラム、ファゴット奏者のリッター、ホルン奏者のプントの存在が彼にこの作品を作曲せしめたのです。モーツァルトは、テュイルリー宮殿で行われていた「コンセール・スピリチュエール」という音楽会での上演に向けて、総監督ジャン・ル・グロに協奏交響曲のスコアの自筆譜を売ります。しかし残念ながら、この作品は演奏されない運命を辿ります。初演に至る過程において、何らかの阻礙(そがい〜邪魔をして物事を進行させないこと)があったとされています。

 1778年5月1日、モーツァルトが父レオポルトに宛てた手紙を読んでみましょう。少し長いですが、抜粋してみます。

 「ところが、協奏交響曲についてもひと悶着がありました。僕はこれは何か邪魔するものがあるんだと思っています。きっと、ここでもまた僕には敵がいるのです。でもどこに敵のいなかったところがあったでしょう?-しかしこれは善い兆しです。僕はこの交響曲を大急ぎで作曲しなければならず、一所懸命でした。独奏者は四人で、みんなすっかり惚れこんでいました。ル・グロはそれの写譜に四日の余裕がありました。ところが、それがいつ見ても同じ場所にあります。おとといになって、それが見あたりません。でも楽譜類の間を探してみると、それが隠してありました。何気ない顔をして、ル・グロに「ところで、協奏交響曲は写譜に出しましたか?」と尋ねると、「いいや、忘れていた」と言います。もちろん僕はル・グロに、それを写譜することも写譜に出すことも命令するわけにいかないので、黙っていました。二日たって、それが演奏されるはずの日にコンセールへ行くと、ラムとプントが顔を真っ赤になって僕のところへやって来て、なぜ僕の協奏交響曲がやられないのか?ときくのです。-「それは知らない。そんなこと、初耳です。私は全然知りません」-ラムはカンカンに怒って、音楽室でフランス語でル・グロのことを、あの人のやり方はきれいじゃない、などと罵っていました。この事で、いちばんいやな気がしたのは、ル・グロが僕にこれについてひと言も言わず、僕だけが何も知らされなかったことです。あの人が、時間が足りなかったとか、なんとか言って、ひと言あやまってくれたらよかったのに、まったく何も言わないのです。」(*2 註釈)

 何故ル・グロがこの協奏交響曲を演奏会で取り上げなかったのか、その真実は現在も解明されていません。当時パリに住む別の作曲家による陰謀ではないか、ということをモーツァルト自身が疑う手紙も残されています。いろいろな人間の思惑やちょっとした偶然や行き違い、そこには嫉妬心などもあったのでしょうか?

 

〈失われた作品と新たに見つかった作品〉
 その後時間を経て、現代に至るまでのこの協奏交響曲の辿った筋道を簡単にお伝えしたいと思います。モーツァルトの手紙でも明らかなように、協奏交響曲はパリにおいて彼が作ったことは明白であるにも関わらず、その自筆譜というのは未だに発見されていません。しかし、20世紀の初頭にドイツのある音楽学者の遺品の中から、それまで見つかっていなかった別の協奏交響曲の写筆譜が発見されます。これは、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンと管弦楽のためのものでした。そして更に別の音楽学者は、「これは消失した協奏交響曲の編曲譜である」という説を発表しました。その根拠は、モーツァルトがやはり1778年の10月3日、父に送った手紙の中で、

「ル・グロ氏は、それを独占しているつもりですが、そうは参りません。僕は頭の中にまだ生き生きと入れてありますから、家へ帰ったら、さっそくもう一度書き上げます」(*2 註釈)

という一文が残っていることによります。このような経緯により、真作であることが不確かなこの作品は、モーツァルトの作品全集に「付録」を意味するAnh(アンハング).9という番号で目録に加えられ、その後別のモーツァルト研究者によって、K.297B(*3 註釈)という番号を与えられて、作品全集の本編に入れられることになったのです。

 更に!まだ続きます。
 アメリカのピアニストで音楽学者のロバート・レヴィン氏を中心とした研究者たちが、新たに見つかったオーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンの協奏交響曲をコンピューターによって解析し、この作品がモーツァルトのものであるという結論を出しました。しかしレヴィン氏は、オーケストラパートの扱いにモーツァルトらしからぬところが多くあると考え、ソロパートのみが後世まで伝わり、モーツァルト以外の第三者がオーケストラパートを加筆したのではないかと仮定した上で、この作品を「統計的・構造的・方法学」によってオーケストラパートを復元、そしてソロパートもフルート、オーボエ、ホルン、ファゴットに復元した稿を作成しました。これが、こんにちレヴィン氏の名前を取り「レヴィン復元版」といわれる協奏交響曲の姿です。そして本日私たちは、この「レヴィン復元版」を用いて演奏いたします。

 

〈ジュピター交響曲〉
 協奏交響曲の演奏の後は、交響曲第41番「ジュピター」についての解説の中で、モーツァルトが書いた書簡も用いながら当時のモーツァルトの心境、生活状況、彼を取り巻く世界状況などのことから、モーツァルトの「ジュピター」の魅力を更に掘り下げてまいります。

 交響曲の解説は、文章ではなくそのレクチャーにおいて音と言葉でお楽しみいただくことにしまして、ここの解説文では説明の時に引用する箇所の譜面の提示のみに留めたいと思います。

 それでは最後までごゆっくりお聴きください。
 そして、コンセール・エクラタン福岡の今後の活動にもどうぞご注目ください。

 
2017年11月4日
指揮者 :橘 直貴
コンサートマスター:廣末真也
首席ヴィオラ奏者:松隈聡子

 

*1 注釈〜ヴァイオリン奏法 レオポルト・モーツァルト著 久保田慶一訳 全音楽譜出版社
*2 註釈~モーツァルトから父への手紙は、全て岩波文庫 柴田治三郎編訳 「モーツァルトの手紙」(上)(下)巻より抜粋した。
*3 註釈~ルードヴィヒ・アロイス・フェルディナンド・リッター・フォン・ケッヘルという音楽学者が1862年にモーツァルトの全音楽作品を時系列的に配列し目録を作成・出版。そこでそれぞれの作品に振り当てられた番号をケッヘル番号として、作品番号の前にK.の文字で表す。