プログラム 挨拶文より
素敵なご縁をいただいて、今年この彦根での第九の演奏会に呼んでいただきました。僕にとりまして彦根は初めて訪れる場所でした。
普段生活している東京の友人などに、今度彦根に行くんだよ、と言うと「彦根ってどこ?」「彦根って何県?」という答えが返ってきます。知ったかぶりをしつつも「彦根はね、滋賀県で琵琶湖が近くてひこにゃんのいる美しい街だよ」と伝えると、大抵の人は「あぁ、ひこにゃん、知ってる」とおっしゃる。ひこにゃんの人気と知名度恐るべしですが、そんな彦根で毎年行われている、この「ひこね市民手づくり第九演奏会」は、今年で第18回を迎えます。オーケストラとの合唱の皆さんが協力し合い、時間と労力を掛けて、しかし楽しむことも決して忘れずにこれだけの回数を重ねてこられたということは、言うほど簡単なことではなく、とても素晴らしいことです。
彦根の皆さん、そして東近江の方々とお話をしておりますと、道行く先々で何かを指差して、この建物は何百年前のどこそこの時代から続くもの、と教えて下さったりもします。この道、その河、物から果ては食べ物まで、普段の何気ない風景や道具が、長い長い歴史によって育まれてきたことを感じさせます。僕にとっては教科書の中だけの歴史上の立派な人物が、日常の会話の中で当たり前のように、あたかもついさっきまでそこに居た近所のおじさんのような親しみを持って語られる、これこそが歴史の持つ重みであると、歴史の浅い北海道に生まれ育った僕などには、常に驚きと新鮮さをもって感じられます。
彦根の方々が誇りを持って語られる彦根城のこと、一度行ってみるとよいですよとのお話を毎回お聞きして、僕はリハーサルのあった翌朝、少し早起きをして行ってみました。数々の試練や歴史を乗り越えて、当時の姿がほぼそのまま残るといわれている国宝・彦根城。天守閣内部の急な階段、切り倒した木をそのまま使ったかような太い梁、その梁はがっちりと数百年も立派な屋根を支えてきたことを物語ります。また、力強さの中にも装飾され、凛とした雰囲気とのコントラストを見せるが如くの窓の枠、瓦の紋様。敵から身を守るための工夫とはいえ、語り尽くせぬ先人の知恵と感性がこの土地に根付いているのだな、と感じました。そして、城の中にそびえ立つ立派なたくさんの木々、それは、「お前のような若造に何が分かるのか?」と言わんばかり。その木に自分の小ささを見透かされたように、肩をすくめそそくさと前を通り過ぎる自分がそこにありました。
自然と人間の作り出すものの調和、力強さは、今日これから演奏される西洋音楽にも同じように当てはまるものと思われます。国と時代が違えども、人間の感情の種類や欲求の数、その幅にはそんなに違いはないものと思われます。ただ、時代と国が違うことで、そこに裏付けされる文化が違っていただけだと僕は思うのです。
歴史に目を向け、過去の遺産を大切に受け継ぎ守り抜く、そしてそれを未来に発展させていこうという人、そのような人々がいる土地は、まごうことなく素晴らしい場所です。その心の方向性は、国や物、歴史のみならず突き詰めて考えるならば、自分以外の他者の歴史というものへの尊厳を持つことに繋がるのではないかと考えます。合奏も合唱も、まずは他者を受け入れ、そこに自分を合わせていくことによる喜びをどこまで増やすことができるのか、という作業に他なりません。彦根の方々にはそのことができています。本日のベートーヴェンの作品の中で語られるシラーの詩、「歓喜に寄す」という精神の本質も、そこにあるものと僕は思います。
この彦根の地で長らく培われてきた歴史や、人の気持ちの積み重ね、全てに敬意を払い自分の存在の小ささを受け入れ、謙虚に、しかし共に音楽を奏でられる喜びに満ちて、「ひこね市民手づくり第九演奏会」は今日ここに本番を迎えます。本日もご来場ありがとうございました。最後までごゆっくりお聴き下さい。
2015年12月20日
指揮者・橘直貴
彦根城を訪ねたときの写真です。